私にできること
11月5日(月)
先週、私の通っていた小学校の今年度いっぱいでの閉校が決まった。閉校・・・と言うより「廃校」と言うのだろうか。
私は石川県の能登と加賀のちょうど境にある津幡町の河合谷というところで生まれ育った。現在津幡町は金沢のベッドタウンとして、人口増加率も県内でトップクラスだし、今はどうかわからないが、県内で一番新入生の数が多い小学校や中学校があったりする。しかし、私の住んでいたところは、そんな新興住宅地が立ち並ぶ地域とは違い、過疎化が進み、現在地区住民の75パーセント以上が60歳以上の高齢者が占める、本当の「いなかまち」だ。
そこで私は、1学年13人、全校生徒77人(6年生当時)という小さな学校で学んだ。小さな学校だったので上の学年の子達は必然的に小さい子の面倒をよくみた。町などで行われる学校対抗のスポーツ大会や音楽会などには、ほぼ全員が何らかの形で出場する。今思えば、私はスポーツだけでも春は器械体操、夏は水泳とミニバスケット、秋にはマラソン、冬は卓球・・・と、とにかく一年中フル回転だった。とにかくみんながいろんなものを掛け持ちしないと回らない。得意、不得意はあったものの、そうやって年中行事に振り回されるのは当たり前の毎日だった。そして、クラス委員や児童会、イベントの実行委員など、すべての児童が参加し、一度は大役を担う。そうやって、みんながバイタリティーを身につけながら育った。小さい学校ならではの過ごし方だ。
小学校を卒業すると、今度は同じ校舎内に併設されていた中学校に進んだ。近隣に住む他の小学校の卒業生数人が加わってクラスメートは19人に増えた。町には、中心部にあるマンモス中学校と、私が通っていた超小規模な中学校の2校が存在した。各教科の先生は一人ずつしかいないし、美術や技術、体育は他の教科の先生(数学や、理科、音楽など)が、掛け持ちして教えてくれた。教科書を忘れたら他のクラスに借りに行く・・・みたいな便利なことはできなかったし、部活動も男子はテニスかバドミントン、女子は全員が卓球しかなかった。当然のようにいじめみたいなものが存在して、クラス中の女の子にシカトされたりすると、「あ~、大きい学校だったら自分のクラスに友達がいなくなっても、他のクラスのこと仲良くすればいいし、クラス替えも期待できるのになぁ・・・」と、何度悩んだか知れない。しかし、逆にクラスのほとんどが保育園時代からずっと一緒だったし、親同士もみんなが知り合いで、先生方も地域に溶け込んでとてもアットホームな雰囲気の学校だった。
運動会や文化祭も小中学校だけでなく、地域の人たちと合同でやった。学校は地域のシンボル的存在だったので、住民とのかかわりも強く、学校全体が地域のコミュニティの役割を果たしていた。
当時はこれでも子供はいた方だったが、年々こどもの数は減少。私が社会人になった平成8年、中学校は大きな町の学校に吸収される形で閉校になった。学校の体育館で開かれた閉校式には多くの住民が集まり、みんなで最後に校歌を合唱したのを覚えている。おそらく、もう部活動も維持できないほど人数が減ったのだろう。当時は寂しいと思いながらも、しょうがないのかな、と言う気持ちでその閉校式に出席した。
そして小学校は、児童数の減少とともに複式学級となる。地区にはもうほとんど子供がいなくなった。そこで、小学校は町の「特認校」の指定を受ける。小中学校は基本的に「学区制」を敷いていて、地域にある学校に通わなければいけないが、この「特認校」の指定により、私の通っていたその町外れの小学校に、町の全地域から子どもが通うことが可能になった。たとえば、自然の中にある学校で学ばせたいとか、少人数での指導を希望する親だったり、また前の学校でいじめられたりして不登校気味だった子が通ったり・・・。
そんな小さな学校で、人数も少ないということで運営も大変である。しかし、学校は地域のシンボル・コミュニティであるとの認識が根付いていて、グラウンドの草むしりには地域に住むお年寄りが参加する。そして、維持運営のためのお金は、協力費として、地域に住む全世帯から(もちろん子供のいない一人暮らしのお年寄りの家庭まで)毎年2000円を受け取っていた。給食費を払わない親がいる、と騒がれている昨今、これはかなりすごいことである。そうやって、みんなが「私たちの地域の学校」を大切に守り続けてきた。
しかし、その小学校も今年度いっぱいで閉校することが決まったそうだ。理由はいろいろあるらしく、「耐震補強工事費が出せない」とか「少人数学習の弊害」だとか・・・。またその閉校は、地元の住民は町や教育委員会からの説明もなく初めに新聞報道で知った、というあまりの暴挙であった。
それから私の父をはじめ、地域の人たちは、「地域のコミュニティとしての学校」を守るべく、この決定を覆してもらおうと多くの活動を展開してきた。町民からも2000名を超える署名が集まって、住民が直接請求を行ったそうだが、しかし、町の議会はこの住民の訴えに耳を傾けることもなく、圧倒的多数で閉校が決まったということだ。
その話を聞いたとき、やはり寂しさが募ってなんだか泣けてきた。父が奔走していることを知っていただけになおさらである。もしまだ私が地元で働いていたときなら、もう少し風を起こせたのではないか、と思ったりもする。しかし、地域に子どもが少ないのも事実で、私も存続させたいのなら自分の子どもをそこに通わせる、くらいの意気込みじゃないといけないのかもしれない。遠い空の下で、何もできないでいる自分にとやかくいう資格はないのかもしれない。
でもやっぱり寂しいのだ。自分の帰る場所がまたひとつ失われたような気になってしまう。私の通っていた保育園も、小学校も、中学校も過疎化と合理化の波に飲まれてなくなってしまった。今の私にできることとは、何だったのだろうか、と久しぶりにまじめに考えさせられてしまう1週間だった。
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コメント
読んでいて涙がでてきそうになった.小学校って一人一人にとって特別な存在なんだよねぇー.
大きい小学校と小さい小学校があって児童やその親が自由に選べる環境があったほうが町としても自慢になるのではないかな? 合理化より多様性を!
投稿: なほちち | 2007年11月 7日 (水) 22時03分